東京・浅草は、寺社、芝居、見世物、土産物、職人文化が集まってきた町です。そして、招き猫の歴史を語るうえでも欠かすことのできない土地です。 隅…

東京・浅草は、寺社、芝居、見世物、土産物、職人文化が集まってきた町です。そして、招き猫の歴史を語るうえでも欠かすことのできない土地です。

今戸焼は、現在の東京都台東区今戸周辺で作られてきた焼き物です。隅田川から得られる土と、水運を利用できる環境を背景に、瓦、日用品、火鉢、土人形などが作られました。
高価な美術品だけではなく、江戸の庶民が暮らしの中で使い、楽しむ焼き物を生み出した点が今戸焼の特色です。猫の土人形も、そうした庶民文化の中から現れました。

今戸焼を代表する猫の縁起物が「丸〆猫」です。体に「丸に〆」の印を持ち、福やお金が外へ逃げないよう「締める」という願いを感じさせる名前です。
現存する丸〆猫には、現在の招き猫とよく似て手を上げたもののほか、横向きのものなど複数の姿があります。現在の招き猫が一つの型から突然生まれたのではなく、さまざまな猫の土人形を経て形作られたことを教えてくれます。

江戸の年表『武江年表』の嘉永5年、すなわち1852年の記述には、浅草寺周辺で猫の土人形が売られ、流行したことを示す内容があります。
さらに同年、歌川広重の錦絵「浄る理町繁花の図」には、浅草寺の近くで丸〆猫とみられる猫の置物を販売する店が描かれています。これは、江戸末期の浅草で猫の縁起物が実際に商品として流通していたことを視覚的に伝える貴重な資料です。

今戸には、貧しさのため愛猫を手放した老女が、夢のお告げに従って猫の土人形を作り、浅草で売ったところ人気になったという伝説もあります。
史料で細部まで確認できる話ではありませんが、焼き物の技術を持つ今戸と、多くの参詣者が集まる浅草寺周辺の市場が結びつき、猫の人形が広まったという背景には現実味があります。

今戸には作り手がいて、浅草寺には全国から人が集まりました。近くには吉原があり、芝居や流行を生み出す場所もありました。ものづくり、信仰、観光、娯楽、商売が近い範囲に共存していたことが、新しい縁起物を広げる力になったのでしょう。
招き猫は、神聖な信仰の対象であると同時に、買って持ち帰ることのできる江戸のポップカルチャーでもありました。

現在の浅草には、伝統的な商品だけでなく、イラスト、ファッション、現代アート、キャラクター、アートトイなど、新しい日本文化を求める旅行者が集まります。
江戸時代の職人が、その時代の人々に愛される猫を作ったように、現代の作家も新しい素材と表現で招き猫を作っています。浅草で現代の招き猫を生み出すことは、伝統を壊すことではありません。時代に合わせて姿を変えながら福を届けてきた、浅草のものづくり文化を受け継ぐことなのです。